西山荘の水戸黄門とベルサイユ宮殿のマリー・アントワネット。
二人は芝棟兄弟だったのである。
兄弟と書いてから、7ト不安になった。
マリー・アントワネットが姉で黄門さんが弟だったらどうしよう。
人名事典で調べて、安心。
黄門さんの方が百二十九歳年上でした。
日本は四季があってよろしい、ということに世間ではなっている。
春は咲く花、夏は海水浴、秋の紅葉に冬スキー。
たしかに日本ほど季節が折り目正しく移り変わる国も少ないだろう。
そのおかげで、日本人の自然への感覚も研ぎすまされ、季語を不可欠とする五・七・五も生まれたのだが、逆にいうと、夏の暑さと冬の寒さの差が激しすぎる。
とりわけ夏はたいへんなものらしく、私のところにインドネシアとフィリピンから来ていた二人の留学生が、アジア一と太鼓判を押してくれた。
その昔、吉田兼好が「家は夏をもって旨とすべし」と書いたのには、ちゃんと理由があったのである。
夏は熱帯、冬は寒帯、足して二で割るとようやく温帯になる。
寒暖の差が激しい地域の住まい方として、夏と冬の家を別々に作るというのがある。
たとえば、世界遺産に登録されたトルコのサフランポルの町が名高い。
冬の家は谷間にあって、寒風を妨ぐ。
夏の家は山の高いところに立地し、開放的な作りの板の間になっていて、山の涼風が吹き抜けてゆく。
季節ごとに移動した遊牧民時代の名残ともいうが、もしそうなら、かつてはユーラシア大陸の広い地域の習慣であったはずだし、マンモスなんかの大型獣を追っていた旧石器時代の人類は、夏用の場と冬用の場を使い分けていたにちがいな。
隣の朝鮮半島の伝統的な家は、冬向きの部屋と夏向きの部屋の二つに分かれている。
冬用は狭く、窓も小さく、壁を厚く塗り、床はオンドル。
日本人が初めて泊まると、敷き布団ごしに背中が熱くて、夜どおし寝返りをうちながら朝を待つことになる。
夏用は、トルコと同様に広い板の間で、南北両側を全面的に開け放つことができるから、木陰で暮らすように快適。
お膳での昼食の後、ゴロッと横になれば、気持ちよく昼寝ができる。
足してようやく温帯の日本列島では、住まいを使い分けるこうした習慣はなかったんだろうか。
私は子供の頃、古い茅葺きの民家で暮らしていたが、使い分けた記憶はないし、話に開いたこともない。
兼好法師も、夏のことしか言ってないから、冬はガマンしてたんだろう。
明治天皇は、真冬でも火鉢を三つ以上は使わなかったそうだ。
もちろんコタツはなし。
天皇にコタツは似合わないが。
日本の家は、冬の寒さに対しては建築的努力はせず、コタツとか着ぶくれで済ませてきた、というのが定説。
大筋はそう考えていいのだが、しかし、ある時代までは夏の家と冬の家を使い分けていた可能性がある。
近年になって、そう考えた方がいい証拠がいくつもでてきたのである。
たとえば、北開東には噴火で生き埋めになった集落の遺跡がある。
厚い灰の下から出現した村の家々の様子を見ると、食器や生活用具は家の外に置かれている。
野外で火を焚き、野外で調理して食事をしていたばかりか、どうも寝るのも外だった可能性もある。
竪穴式の家はあるのだが、その中に生活の痕跡がないのである。
暖かい季節は外で寝起きしていたと考えることができる。
竪穴式住居の本家縄文時代ももちろんそうで、竪穴の真ん中に石を組んだ炉があるから土器や石器も周りにあるだろうと私たち素人は考えるが、考古学者に聞くと、ほとんどは家の外から出てくるそうだ。
よく地方の博物館に行くと、縄文時代の生活が復元してあって、炉の火を囲んで家族が座り、地面には土器や石器が置かれ、柱や梁には食料や諸道具がかけられ、まことににぎやかで楽しげに演出されているが、遺跡に見るかぎりそんなことはなかった。
現代の家庭の光景を反映したに過ぎず、実際は、冬の寒い日や大雨の時に寝る場所でしかなかった可能性も否定できない。
少なくとも、今の家のように、年中その中で暮らすようなしっかりした存在じゃなかった。
縄文時代のわれらが御先祖様は、とりわけ冬寒い地方では、夏は鳥のように巣に住み、冬は熊のように穴に住んでいたんじゃあるまいか。
鳥の巣といっても、スズメやカラスじゃなくて、コウノトリや大ワシのように、その辺にいくらでもあった巨木の枝分かれする低い位置に丸太を差し渡して小枝を敷いて床とし、草で屋根を軽く葺いて雨露を凌いでいた。
寝るときだけだから、広い必要はない。
木の上なら涼しく、蚊も釆ないし、猛獣に襲われるおそれもない。
老縄文人には夜の便所がちょっとつらいが。
そして、冬になると、竪穴式住居の中に移った。
それも、基本的には夜になって寝るときだけ。
冬でも昼間はもっぱら外で暮らしていた。
竪穴式住居は冬の夜のためと考えると、現在の大方の復元は間違っている。
その後の草葺きの民家のように屋根の傾斜をあんなに急にする必要はない。
座ったり寝たりに必要な高さがあればよい。
本当の傾斜はもっとゆるく、そしてゆるい屋根面には防寒のため土が盛られ、草が植えられていたにちがいない。
土が盛れるほどゆるい傾斜の屋根-これが本当なら、本書七二・七八頁で取り上げた芝棟、そう、例の茅葺き屋根のてっぺんに草花を植える日本とフランスに残る奇妙な風習の発生の謎が解ける。
当初はゆるい屋根の全面に草が植えられていたのだが、生活の充実とともに次第に尾根の傾斜は強くなり、その結果、棟の位置にしか植えられなくなり、やがて壁が立ち上がって、今日の芝棟になる。
ゆるい傾斜の土盛屋根が使われていた可能性は極めて高く、実際にそういう縄文住居の叩復元も実現しているが、しかし、けっしてそのような復元が広がることはないと思う。
なぜなら、復元の事業費を承認する議員先生はじめ各地の大半の人は、そんな土蜘妹みたいな御先祖のイメージを好まないからだ。
しかし、ものは考えよう、イメージはしようだ。
木の上に住むのはトム・ソーヤの仲間のハックみたいでかっこいいし、なだらかな起伏の中にところどころポコッポコッと草の生えた屋根が持ち上がっている縄文集落の光景というのもエコロジカルではあるまいか。
「夏は棟に宿、冬は穴に住む」のが、二十一世紀の最先端の住まいにならないとも限らない。
そんな気持ちの揺らぎが、現代のもの想う人全員の中にないとは言えないのだ。
シック・ハウスの代わりにシックイ・ハウスを!(建材)この項は、目から涙の建築学≠ナある。
数年前に今の家を建て替えるまで、二十年近く住んでいたプレハブ住宅は、台所に入ると、鼻がヒタンとした。
食器棚のガラス扉を開けて、顔を近づけると、目に涙がにじんだ。
茶碗や皿に格別な思い入れがあったわけではなくて、単にホルムアルデヒドが涙腺を刺激しただけ。
その食器棚は白いメラミン板を内外に張った作りで、汚れはしみないし、見た目にも清潔そうでなかなか良かった。
ニオイはきついがそのうち抜けるだろう、と思って放っておいたら、結局家を壊すときまで抜けず、二十年間におい続けた。
このことがあったので、数年前から専門家の間で室内が化学物質で汚染されたシック・ハウス(病んだ家)の話が出始めたとき、ハバン、アレグナ、と思った。
そして、ジャー叩ナリズムは一斉に取り上げるし、住宅メーカーも健康住宅″をうたい文句にしだした。
コンテナを利用する場合、通常のコンテナに比べ実際に手を触れることもないので、不安を感じる要素も多いでしょう。
「中間層であるコンテナボックスの攻略は避けては通れないコンテナボックス」と判断して生き残りを目指した模索が続く。
読者や視聴者をひきつけるレンタルコンテナの文章やレンタルコンテナの構成を考える能力はすごいと思う。
